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日本のスポーツ界を支えるアスリートたちを輩出してきた九州・山口。そこには彼、彼女たちをはぐくんできた高校、大学や企業がある。全国的な活躍を果たした“礎”をピックアップし、そこから巣立っていった名選手たちの当時の思いや近況を伝える。 |
| [44] 済々黌高 末次義久 |
早実の王から4の4
「世界の王」に投手をあきらめさせた一人。1958年の選抜、末次義久(64)は済々黌の1番・遊撃手、そして主将として出場した。5試合を戦って頂点を極めるが、末次は21打数9安打、打率・429を残した。3試合以上の選手の中では最高打率だった。
準々決勝で前年度の覇者・早稲田実とぶつかった。エースは同じ3年の王。この試合で王に一発を見舞われるが、済々黌は7―5で勝った。末次は王から4打数4安打。「2年の時の王は3ボール、3ストライクの投手だった。それが3年の時には迫力もなくなっていた。打撃はすごかったけどね」。まとまった分、末次には投手としての王に怖さという鎧(よろい)がはがれ落ちたように見えたのだ。 王とは今でも年賀状のやりとりをする間柄。プロで成功し始めた王が、あるCMでティー打撃をするシーンがあり、末次がボールを上げてやったこともあった。王の人間性、実績、その指導力などを理解し、コミッショナーに推す。「やっぱり野球経験者でないと。それには王がいい」 末次の売りは足と肩だった。三角中(熊本県)時代にすでに100メートルを11秒台の後半で走った。今でも語り草となっている60年の「早慶6連戦」では2年生として2番・ショートでスタメン出場。早大時代の末次は肩と足だけなら広岡(達朗)よりも上といわれたほどだ。高校卒業時には阪神から誘われた。ただ、監督らが断りを入れ、末次がこの話を聞いたのは、後になってからだ。 72年から18年間、母校・済々黌の監督になった。この間、79、90年と2度夏の甲子園に出場。ともに初戦を突破して2回戦で敗れた。引退後は野球雑誌の編集主幹を務めたりもした。現在は九州地区高校野球監督会顧問、日本ティーボール協会専務理事などの要職にも就く。 選抜を制してから46年。優勝当時は末次個人のブロマイドも作られた。それほどの人気者。当時から比べると、その名前も風化してきたが、野球に対する愛情は寸分も変わらない。ほぼ毎日のように済々黌でコーチし、年に数回は早大の後輩が監督をする日本文理大にも足を運ぶ。 この取材をした日も、コーヒー1杯で4時間以上。この人には骨の髄まで「野球」が染みこんでいる。 =敬称略 (森本博樹)
2004.12.17掲載
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